カテゴリ:頑張らない介護生活 |
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2010年 12月 24日
ズーミンのサンタコスプレを見て気が付く始末。
現時点までで夫→ETCの音声→ダイドーの自動販売機の順で御挨拶されるが夫以外は人ですらない。 「今年はねー、ひろちゃんの所にサンタさん来ないんだってー」と毎年恒例の夫の夢があるんだかないんだか分からないお言葉。 まぁいいか。メリー・クリスマス! 年明けに滑りに行くので年末はノンビリできるかと思いきや、ギリギリまで人の出入りもあり大掃除もままならない。 見える所だけでも大袈裟に動いて誤魔化すか。 それにしても一年が早いわ。 夏。父が突如腹痛と吐き気を訴え病院に連れて行ったら即入院。 隅々まで検査した結果、盲腸あたりの炎症が悪さをしていたそうで断食=点滴でお腹を休憩させ、ジイさんのクセに明け方まで起きてて昼まで寝てるというドラマに出てくる物書きのような生活の改善を看護師さんにお願いし一週間の拉致入院。 血管に注入された液体の中に優しさ成分が含まれていたらしく、一時的に娘に対して労りと感謝の言葉を口にするなど不気味に変貌。 退院の際、看護師さんから「優しさ成分がきれてきたらまた連れてきていいですよ。ふふふ」という有難いお言葉と薬1錠も処方されない帰宅状況から生活習慣を深く反省した模様。 そして秋が過ぎ、冬。 そろそろ拉致してもらおうか!?えぇ!? 気が付いたらすっかり生活が元に戻っていた父。 思えば今年の元旦からお騒がせだったよな??ああ?? とうとう先週、静かに怒りを爆発させた娘に逆切れするも翌日には海外のトランペット奏者のクリスマスコンサートがあり下心からか一夜明けて態度が一気に軟化。 そして当日会場で貰って来たチラシのギターコンサートの発売日が翌日で良席求めてお遣いを頼みたかった事から呆気なく終戦。優しさ成分また復活。 ありがとう、トランペットの外人さん。ありがとう、ギターのムラジなんとかさん。 これでいいのだ。 父はとても生真面目でマメなので今日やろうと決めていた事を順序どおり出来ないと苛立ってしまう人。 しなければならない事、したい事、行かなければならない所、行きたい所。 でもね1日はどう転んだって平等に24時間しかないのだよ。 明日もあるんだし、マザーよっちゃんも元気だし、私と夫も居るだけだけどいるんだし。 のんびり楽しくやっていこうよ。 日々、リーダー(ひろ父)のプライドを守りつつコソコソと作戦会議を繰り広げる参謀達(私と夫とナース陣)なのでありました。 よいクリスマスを!そして来年も幸せでありますように!
2010年 04月 09日
うん、私は頭の中がツルリとしててね、ドクターの説明の裏も取ってないし(調べてないというか)15年以上前の経験だけで今回の記事を書くのでね、まぁ近所のおばちゃんの世間話程度に読んで下され。
くも膜下出血。母の現在の状態になった原因です。 もともと偏頭痛持ちだった母、倒れる半年ほど前にあまりに気になったので近くの総合病院に行くとCT検査をして「頭には異常なし」との事。 その数年前に乳がんの手術をしていて抗がん剤が終わってもう安心と言われた直後でした。 倒れた時には意識は(多分)あるものの大きな目で私を追随するだけで体も表情の動きもない。倒れているそばには吐しゃ物が。 素人目にも脳に異常があるって分かる状態でした。 救急車で先の総合病院に運ばれ、検査の結果「現在、病院が工事中でこちらでは対処できない状態なので他の病院に移す」との事。(ソレ早く言え。だったら最初から運ばねーよ!とは心の声) ドクター付き添いで次の病院へ。 救急車に備え付けられた測定器で移動中に二度目の出血を確認との事(←コレはかなり危険な事)。 この頃には全く意識の無い状態でした。 かなり危ない状態との説明でしたが、手術=手の施しようが『まだ』有るという事なのでしょうか。わかりませんが。 そこは脳外専門病院でしたが、同じ病気で運ばれた方の中には手術せずに死を迎える方も。 記憶に残っているのは息子さんの付き添いで来ていた優しそうな年配の御婦人の話。 「あの子は昔から気配り屋なんで自分で救急車を呼んだあとに戻した(嘔吐)後始末をしていたらしいんですよ」 数日後に息子さんを見送られました。 手術を終え目覚めた時の母ははっきりと私と父を交互に見て確かに何か言いたげな表情をしていました。言葉がすぐにでも出てきそうな口元。 最初の手術が無事に終わる、これはまだ最初の一歩に過ぎないのがくも膜下出血の怖さで、その数日後に「血管れんしゅく」とかいう脳血管の変化(細くなる?)がおこるのですがこれを乗り越えてこその生還です(当時のドクター談)。 母はこの血管れんしゅく(母の場合は10日後ぐらいだったでしょうか)により強い脳梗塞状態になり結果大きな障害を残すことになりました。 (この暫く後のTVでこの血管れんしゅくの影響を回避するために体の体温を低くし乗りきる治療法を紹介していましたが今は普通にやってるのかな?) その後、眼球すら動かず目に『映っている』から目をキョロキョロさせて『見ている』状態になるまで数カ月かかりました。 声が出るまで1年以上、頷きによる意思表示まで2年以上。 発病から十数年の現在、全身麻痺(左半身に関しては肌の感覚はあるようです)、言葉の完全麻痺はありますが、頷き&首横にプルで意思表示(但し機嫌や都合が悪いとシカト、御機嫌過ぎると話の途中でも何でも頷いちゃうするツンデレ母)、我が家で真っ先に地デジ化されたテレビで父とニュースを見ながら日本の将来を憂うってな生活です(ホントか?) ここからはドクター談ですが、ちょっとうーんな感じも含んでますんで『雑談』の範囲で読んでくださいね。 母方の祖母も母と同じくも膜下出血で亡くなっています。 ドクターによるとその子どもがくも膜下出血になる確率は25%、偶然にも四人姉妹ですしな。誰かがなるのであれば天命に耐えられるであろうと母に与えられたんでしょうな。うん。 遺伝ではないけど家族の体質の類似の危険みたいなもんでしょうか。 私もたまに検査を受けるようにしています。 もともと頭痛持ちなので名目は頭痛ってコトで受診するんですが、私の行く脳外科の問診票に「血族にくも膜下出血(←脳卒中の中でこれだけ限定)になった人はいますか?」ってな設問があります。 もちろんこれにマルを付けるんですが、かなりの確率でMRA検査(脳血管丸見え写真)です。 ドクター曰く、「瘤があれば一年に2%の確率で破裂する。それが何年目に当たるか分からない。50年生きれば100%の確率で破裂する」だそうです。 たった2%と思うかもしれないけど、瘤が出来た直後から可能性が発生するって事ですよね。 いや、今のところ無いんですけどね。 一度血管のうねりか血管の瘤か見分けがつかず別角度からもう一度検査ってこともありました。 幸いにも瘤の状態で見つかれば、その瘤をクリッピングして破裂を防ぐ事が出来ます。 もちろん手術なので危険は伴いますが。 母と同じ時期にICUに居た時にそのうちの2人がくも膜下出血でしたが、もう一人の方は頭の激痛で運ばれたけど幸い瘤の状態だったのでクリップで留めて無事退院。 くも膜下出血のお二人も無事に社会復帰出来たんですが、退院前の検査で二人揃って瘤発見。 よくあるらしいんです。血管れんしゅくの影響?わからんけど。 そのうちの「りっちゃん」という男性の奥さんや奥さんのお母様や息子のゆーた(当時小学低学年)にいろいろ食わせてもらいました。いや、私も若かったんで(?)。 今でも顔を合わせる事がありますが、ゆーたが大人過ぎてイヤン(もう大学生)。 あ、話逸れた。 退院時の検査で発見されたりっちゃんの瘤は4つ。 体力が有り余ってたんで退院せずに手術へ。その後は無事に過ごしています。 脳卒中の中で致死率の高さでは断トツのくも膜下出血。 防げる『かも』しれない病気です。ホント『かも』程度ですが。 ただ、瘤が今有るとしたら防げると防げないとではこんなに予後が違う『かも』しれないという独り言ですわな。 母の倒れる前の私にもっとこの用心深さがあったらなってやっぱ思わなくもないんで。 Gのキムラコーチ、家族で祈ってました。全く野球に興味の無い父までもが。 どうぞ安らかに。
2009年 05月 14日
昨日、農道の歩道におばあさんが倒れ込んでいるように見えたので車を止めて声を掛けた。
私の後ろを走っていたトラックの若い茶髪のあんちゃんも同じように車を止めて駆け寄ってきた。 「知らない人がこんなに優しいのに」とおばあさんは泣き出したので慌てる私とあんちゃん。 聞けば「私には自由がない。お父さんはトイレにまでついてくる。同居している息子夫婦は全く知らん顔。こっそり抜け出してきた」とのこと。 休んでいただけだというので立ち上がるのをみると自力で歩けるものの病気の後遺症で不自由なのがかなり分かる。 送るから帰ろうと言うと何が何でも近くにある花を摘んで帰りたいとのこと。 家を聞くと往復で1㎞以上はある。 本当に休んでいただけのようだが往復1㎞は到底無理な感じ。 一見しっかりしているようでも多少の認知症の可能性も心配。 あんちゃんと相談して一応ご家族には知らせることに。 家が分からなかったが偶然お会いしたおばあさんの近所の方にお願いできた。 トイレにまでついてくるおとうさんは心配だったんだろうな。 でもおかあさんにはおかあさんの気持ちもある。 難しいな。 先月、墓参りがてら富士霊園に花見に行こうとしたが、今年は例年より早く散りはじめ、天気も心配だったので御殿場高原に変更した。 その日に清水由貴子さんが富士霊園を訪れた。 1人で背負いすぎないで頼ることも大事。身内にも福祉にも。 うまくいっているケースをマネしたら当然自分の家族にすっぽり当てはまるなんて考えない方が良い。 人と人なんだから。 私達だっていまだに気付くことや教えられることのある日々。 target="_blank">今日のオリコンのニュースから 以前から話題になっていた曲ですね 樋口了一といえば水曜どうでしょう!
2007年 03月 30日
父が寝たきりの母の傍らでTVから流れる歌に合わせて調子っぱずれに口ずさむ。それが母にとっては可笑しいらしくニコニコと笑い出す。父はどちらかというとお堅いタイプの人間で以前は鼻歌すら聞く事はなかった。
母が倒れたとき家に居たのは私だけだった。私が1人で医師の説明を受け、一刻を争う状態だったために手術の承諾書にサインをした。そして、私は医師に思わず聞いた。「覚悟は必要なんですね?」 今考えれば、母の為でもない。最悪の事態を予測した私が“その時”を持ちこたえるために聞いた一言だった。 父が病院に駆けつけたときは母は既に手術の準備に入っており、会える状態ではなかった。私の口からひととおりの説明を聞くと父は「入院の準備をしてくる」と家へ。手術の準備は思ったより時間がかかったのだが、それ以上に父の戻りが遅い。自宅に何度も電話を入れる。ようやく戻って来た父の手には歯ブラシや湯飲み下着などの当たり前の物ばかり。私はいらだたしかった。「この人は何をこんなにのんびり構えているんだろう」 手術の準備が終わり手術室へ向かう一瞬、母に会えた。髪の毛を剃り落とし意識を失った母。父のやけに冷静な「よろしくお願いします」という言葉でようやく私は我に返った。 この時の父の気持ちを先日父が介護の会の方に頼まれて書いた文章を読んで初めて知った。 ~「彼女は死なない」妙な確信のようなものがあった~ 今思えば、父の気持ちが伝染したのだろう。その確信とやらは、それから数か月、幾度かの危機を母ばかりか私達をも支えてきた。 「妻は何十年も家庭を支えてきたおかげで仕事に打ち込むことが出来た。自分は今、その恩返しをしているだけだ」父の文章は綴る。「いつか再び言葉を交わすのを楽しみにしている」 言葉を使えない母は、時には意志を伝えられないいらだたしさに癇癪を起こすことがある。プレッシャーを感じるかも知れない・・・。少し躊躇したが父に隠れて母に読んで聞かせた。 とても嬉しそうに笑う母。 しょうがないから、お父さんのために頑張ってやろうか?と冗談めいて聞く私に何度も頷く。 自分以外の人の為に生きるってそんなに悪いもんじゃないな。 それは決して自分を犠牲にすることでも捨てることでもない。ましてや努力するコトでも。 両親を見ていて心からそう思う。
2007年 03月 30日
私の母がくも膜下出血で倒れてから5年がたつ。
母は四肢の運動機能のほとんどと言葉を失った。2年前、リハビリの病院を経て自宅に戻ったときは発声や頷きすらない状態であったが、現在はそれらでコミュニケーションをとるまでに回復している。 母が自宅に戻るにあたり残った家族それぞれに小さな調整はあったものの、それを目標にしてきため重荷を感じるということはなく肉体的にも精神的にも経済的にも万全に近い状態で母を迎えることが出来た。そして他人である夫が母の介護に対して前向きで熱心で深い理解をもってくれたことにとても感謝している 在宅介護をするという点ではとても恵まれていた方なのだろう。 父がよく「60を過ぎて、この人(母)に沢山のことを教えてもらった」と言う。私も同じようなことを思っていた。 母が倒れて長く入院生活していた際、いろいろな人たちと知り合いお世話になり支えられた。相手の方ももちろん大変な時期なのに・・・温かくさりげない心遣いに、うれしいと思う反面、同じように接することの出来なかった自分達をはがゆく思った。 母が病気にならなければ私は今よりもっと未熟で自分本位でしか物事を考えられない人間だったろう。母が身をもって教えてくれたと思いたい。 母は以前と変わらず私たちの中心にいる。 介護をしているというとよく「大変だね」と言われる。「えらいね」とも。おそらく私も他の人に対して言うのであれば、同じ台詞を言うだろう。 松本サリン事件で被害に遭い奥様が重い障害をのこすことになってしまった河野さんが「私が妻を支えているのではなく妻が私を支えている」とコメントしている記事を読んだ。病気とは違い理不尽な状況で障害者の家族となってしまった人の言葉を借りるのは恐縮してしまうが、自分の言葉に出来なかった気持ちが形になった気がした。 私たちもまた母に支えられているのである。
2007年 03月 30日
半年振りぐらいか?新潟以外から更新です。
3月は母の誕生月であり母が倒れた月でもあります。 一昨日、母は同じ病で亡くなった祖母の歳を二つ越えました。 ぐんぐん越えよう。よっちゃん。愛してるよー。 以後2件、数年前にHPに載せていた唯一真面目なコーナーの拙い文章を転載しまする。 決してブログをはじめて2年近く経つのに記事数が100件をやっと越える更新頻度を気にしたわけではありませぬよ。 いや、このぱちょこんもいつぶっ飛ぶかわからんし、 今後わたしがやさぐれない為に。ふふふ。 ホントに真面目なので誰だテメー的な目でみないでね。
2005年 07月 04日
長嶋さんが元気な姿を見せてくれました。
お金持ちなので随分いい待遇でリハビリしてんだろうなーってのが頭に浮かぶかもしれませんね。 最高の施設で最高のスタッフ、確かにそうかもしれません。 しかしね。 本人の肉体の辛さに関して言えば実のところ我ら一般人とあまり変わりはないんですよ。 みんなの前に姿を見せるまでに一年数ヶ月、逆を言えば一年数ヶ月熱心にリハビリをサポートしてくれる方がいてくれるのは確かに『長嶋さん』だったからかもしれませんが、やはり本人の強い意欲というか意志がなければ、まず実現しなかっただろうと。 思うように変わらない自分の体が歯痒い、そんな壁に意欲を削がれて行く人も少なくはありません。 努力をすれば結果が必ず出るとは限らないのですから。 母が1年半入所していたリハビリ施設で何人もの若い入所者さんと知り合いになりました。 その中の1人の男の子の事を思い出しました。 何故、この場所に来ることになったのか知りません。 明るくてユーモアがあって礼儀正しくて人気者の青年でした。 彼はもう歩くことは望まない、と。 冷静に自分の状況を受け止めていました。 休日のリハビリ室ではスポ根ものでやるような袋に入った重りを引きずらせて1人で車椅子を漕ぐ姿をよく見かけました。 ある日、喫茶室で一緒になったのでおネェさん振って「コーヒーでも飲む?」と何気なく聞いた時、「あ!俺の手ね、カップ持てないっすよー」と。 重りを付けて力強く車椅子を漕ぐ彼の指がコーヒーカップの重さに耐えられないとは思ってもみませんでした。 ストローでジュースを飲みながら「俺ね、もうすぐココを出なきゃいけないんで地元の施設に移るんですけど、そこで車椅子のバスケをやりたいんすよー」 どうしてるかな、バスケやってるかな。 あの明るさは変わらずに元気でやってるかな。
2005年 05月 24日
数年前、「頑張らない介護生活」というコピーを基に作られたであろう某社のCMが気に入りませんでね、その商品のHPのアンケートに「あのコピーとCMは介護を辛いものイヤなものと観た人達に、これから介護生活に入るかもしれない人達に、植え付けてしまうのではないか」ってな意見を偉そうに書いたことがあります。
いやー、気楽にやってたつもりでも、あの頃はまだ肩肘張ってたんだな。 そういえば、アンケートのお礼に商品送られてきたな。感謝(ゲンキンだな…) 背景や意気込みや愛があるなしにかかわらず、ともかくですね、家族の介護は「やらなければならない人」がしているワケで。 「大変だね」「私にはとてもできない」はよく人から言われる言葉。 正直、介護は本当に苦じゃないけど、こういわれるのはちょっと苦手だったな。 「楽しくやってますよー」「私も絶対やらないようなタイプですよねーアハハハー」と本心からサラリと流せるようになるまでほんの少し時間がかかったかもな。 ちょっと年上の友人の介護生活がスタートしました。 母子家庭で一家の大黒柱。 カリカリ度が頑張りすぎのバロメーターな人。 時間を作ってたまにはお茶でも飲みに行きましょ。
2005年 05月 14日
母にできること
首を動かす。 問いかけにうなずく、首を振る。 たまに機嫌が悪いと「ふんっ」とそっぽを向く。 「あー」と声を出して呼ぶ。 何かしてもらいたい時、やたら御機嫌のいい時、ひどく御機嫌ナナメの時。 嬉しいときや楽しいときは笑う、一言物申したいときには顔をしかめる。 それに伴い声を出す。 フテ気味の時、「もういい!」と言いたい時、むんっ!と力を入れて口を閉じる。 左腕から先のみ動かす。半分意識、半分不随運動。 食事は胃ろうといって胃の外から穴を作り直接入れた管から流動食を流すのだが、訪問の看護婦さんが来ていて機嫌の良いときは絞った果汁を小さなスプーンで3口ほど。 母が発病してから9年が過ぎた。 自宅に戻って7年。当時は意思表示もなく私達を目でただ追うだけだった。 薄紙を一枚一枚重ねていくような感じ。 あったモノがなくなってしまったと考えるか、無かったはずのモノが増えていってると考えるか。 人魚姫は王子様に愛されさえすれば幸せになれたんだろうか、だな。 母の場合、失って得たモノは命。 生きていて良かったと思ってもらいたいな。 PM2時、昨夜もなかなか寝付けない母のベッドの傍らで父が椅子に腰掛けて話しかけていた。 「お前さんね、頑張って起きてるようだけどね、実は…(睡眠導入剤を)一服盛ってしまったのだよ(ニヤリ)」 「あぁー…ぁぁ…ぁ……(訳・計りおったなー)」既に半白目 まぁ、たまにこんな技も使いますがね。 < 前のページ次のページ >
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